昔は桜より梅が人気?花見の歴史の知られざる変遷を紹介

作成日:2016.03.11

最終更新日:2016年3月11日

カテゴリー:花と草木のお役立ち情報

春本番になり、桜が見ごろになる頃の行楽といえば花見ですよね。シートを広げて場所取りをし、満開の桜の下でご馳走を食べる人々の姿をあちらこちらで見かけます。

有名な花見スポットといえば、奈良県の吉野山をはじめ、東京の上野恩賜公園、または目黒の川沿いの桜などが有名でしょう。毎年大勢の人が押し寄せ、夜桜見物もまた一興として楽しまれています。

そんな現代の春の風物詩でもある花見ですが、その歴史はかなり古くにさかのぼります。

奈良時代には、すでに花見の原型が始まっていたとされます。

この記事では、日本で古くから続く花見文化の変遷を、時代ごとに紹介します。

時代によってその楽しみ方は異なり、花見は為政者の趣向によって変化を遂げてきました。

その歴史を知ると、花見がより楽しくなるでしょう。

 1章 奈良時代  -花鑑賞とは梅のこと-

現代の花見の根底となる習慣は、奈良時代に形作られたといわれています。

桜より梅が人気

現代では、花見で愛でる花といえばもちろん桜のことですよね。桜は日本人に古くから愛されてきた花であり、春を象徴する花です。

でも、実は奈良時代は桜より好かれた花があったんですよ。

それは梅です。奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていました。貴族たちの間では造園する際、梅を入れることが定番となったようです。

当時、日本は遣唐使を介した中国との交易が盛んでした。中国文化、物品も多く日本に伝わり、その中の1つに梅があったのです。香立つその花は珍重され、桜よりも人気がありました。

その人気ぶりをうかがえるのが、『万葉集』に詠まれた梅の数です。桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれているのです。

花見の始まりは奈良時代にあり

こうして貴族を中心に好まれ、愛されてきた梅。当時の貴族の優雅な風習といえば、「歌を詠む事」でした。中国からやってきた梅を見ながら、歌を詠む会を開きました。これが現在の花見の原型になったといわれています。

桜は神聖な木

梅の人気が高かったといっても、人々が桜に興味がなかったというわけではありません。

というのも、そもそも日本人にとって桜は古来より大切な存在でした。

それは「サクラ」という名前の由来といわれる説からもわかります。

「サ」は田の神様、「クラ」は神様の座る場所を意味しているという説です。つまり、「サクラ」は神様が山から下りてきた時に一旦留まる依代(よりしろ)とされていました。

そのため、桜が咲くことは「神様が山から下りてきた証」と考えられ、皆で集まり、お酒や食べ物をお供えしていたとされます。

また、当時の人は桜の開花状況を見て、田植えの時期を決めていました。

美しい桜の花が咲く時期を、田植えに適切な時期と考えていたようです。

当時、桜は鑑賞するというより、神様が宿る神聖な木であり、祭る対象となっていたのですね。

 2章 平安時代  -桜ブームの到来-

時は変わって平安時代になると梅と桜の人気が逆転します。

遣唐使の廃止で桜ブーム来たる

学問の神様と言われる菅原道真が遣唐使を廃止したのは、894年のことでした。遣唐使の廃止により、日本独自の文化が発展していったともいわれています。

これを契機に日本古来の文化や、美徳に人々が注目し始めたのかも知れませんね。この時を境に、花といえば「梅」ではなく「桜」を指すようになっていきました。

桜ブーム到来は、和歌にも表れています。平安初期に作成された『古今和歌集』には、梅を詠んだ歌は18首程度に対し、桜を詠んだ歌は70首となっています。平安時代に、一気に梅と桜の人気が逆転したことがうかがえますね。

紀友則はこのような歌を詠んでいます。

「久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」

現代語訳すると、「こんなにも日の光がのどかな春の日に、どうして桜の花だけは散っていってしまうのだろうか」といったところ。

原文の歌には「花」としかありませんが、この言葉だけで当時は桜をさしていました。その意味においても、桜は他の花に比べても特別な存在だったのでしょう。

桜のヒットメーカーは誰?

記録に残る日本初の花見は、嵯峨天皇が主催しました。

『日本後記』によると、812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと記されています。

このときにはすでに、花見の対象は梅ではなく桜になっていたと考えられます。その理由の1つとして、嵯峨天皇の桜好きが挙げられるでしょう。嵯峨天皇は地主神社の桜を大変気に入り、それ以来毎年、地主神社に桜を献上させていたといわれています。

831年からは、花見が天皇主催の定例行事となり、その様子は『源氏物語』にも窺い知ることが出来ます。

こうして、天皇主催の花見を通し、貴族の間に桜の鑑賞が急速に広がっていきました。この時代に書かれた日本最古の庭園書『作庭書』にも、「庭には花(桜)の木を植えるべし」と書かれています。

花見の花といえば桜、という認識が定着したのは平安時代といえるでしょう。

3章 鎌倉~安土桃山時代 -花見の浸透-

歴史上、盛大な花見が初めて行われたのは安土桃山時代です。

武士階級にも広まり出した鎌倉時代

鎌倉~室町時代になると、貴族の風習としての花見が、武士や一部地域でも行われるようになりました。一般階級に開かれて行ったのは、鎌倉時代以降といわれています。

その様子を端的に示す資料として、吉田兼好の『徒然草』が挙げられます。第137段では貴族と田舎者の花見の仕方が比較されています。

貴族が桜を上品に愛でるのに対し、上京したばかりの田舎者は、桜の下で酒を飲みながら連歌を楽しみ、どんちゃん騒ぎのようなふるまいだったと、対照的に書かれています。

一方、鎌倉・室町・安土桃山時代は戦の時代でもありました。桜の命は短く、あっという間に散ってしまう様は縁起が悪いと、もいたようです。

宴会型の花見の始まりは安土桃山時代

安土桃山時代は、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。

この時代を通して、花見は徐々に盛大に行われるようになります。特に、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」や「醍醐の花見」は有名です。

「吉野の花見」は、秀吉が繁栄を謳歌していた絶頂期である1594年に開かれました。大阪より運んだ1000本の桜が植えられ、5000人が召喚されたといわれていますから、その盛大さは想像を超えるものがありますね。

徳川家康、前田利家、伊達政宗といった、当時の有力な武将も多く呼ばれていました。記録によると、この花見は5日間続き、本陣がおかれた吉水神社では連日のように茶会、歌の会、能の会が開かれたといいます。

しかも、各武将は変装するなど、現代でいうコスプレをして楽しんだといわれています。秀吉も大はしゃぎしたといい、まさにお祭り騒ぎですね。

また、1598年には「醍醐の花見」が開かれています。

1300人を召し仕えて開催されたといわれていますから、派手好きな秀吉の性格と、変わらない花見好きがうかがえますね。

この盛大な花見から、花見が宴会行事として定着していったと考えられます。

また、花見人気に押されてか、京都の寺社や山々に桜が植えられ始めたのは、この頃といわれています。

花見団子の由来

花見といえば、花見団子、桜餅などの甘い食べ物が思い浮かびますよね。

花見のときに甘味が食べられるようになったのは、「醍醐の花見」です。この花見の際、全国から名産品や甘物が集められた事がきっかけといわれています。

以降、甘い物が花見には欠かせない食べ物として認知されるようになりました。

ちなみに、花見団子といえば、桜色、白、緑の3色。この色にも意味があるんですよ。

桜色は「春」の桜、白は「冬」の雪、緑はよもぎで「夏」の予兆を示唆します。「秋」がないので、「飽きがこない」とされています。紅白で縁起が良く、緑が邪気を払ってくれると、めでたい席に重宝されたのです。

花見団子の由来がわかると、「昔の人も、こうやって桜を楽しんだのか」と、花見が何倍も楽しくなりそうですね。

4章 江戸時代 -花見の定着-

江戸時代になると、一般庶民も花見を楽しむようになりました。

8代将軍吉宗の政策

3代将軍徳川家光は、徳川家の菩薩寺となる寛永寺に、多くの吉野の桜を植えたことで有名です。これが、江戸に吉野の桜がきた最初といわれています。

しかしながら、寛永寺は格式ある名所。この場所で一般の庶民が花見をすることは当然許されません。

庶民が花見をする場所を作ったのは、8代将軍の吉宗でした。1720年に浅草(墨田川堤)や飛鳥山に大規模な桜の植樹を行い、庶民が桜を楽しむ場を提供したのです。

それだけではありません。農村部に積極的な桜の植樹を促進し、東京の桜の見どころの基礎を築いたとされています。

農村に桜の名所が作られると、花見客による農民の収入が増えることを見越した策でした。

吉宗は庶民が文化や武芸に触れることを奨励していました。これが、吉宗が名君といわれる所以でしょう。

庶民の為の花見文化の誕生

吉宗の政策により、庶民の春の行楽となった花見。桜を見ながらワイワイとお酒を飲むスタイルが主流になっていきました。

グループを作って弁当やお酒を持参して食べたり、桜の下でお茶をたてたりする人もいたのだとか。現在と変わらない花見風景が窺い知れます。

5章 明治~現代 -ソメイヨシノが全国に-

ソメイヨシノの誕生

江戸の末期になると、桜の新しい品種が作られます。それこそ、ソメイヨシノでした。

江戸時代の末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋によって、「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配してつくられた桜です。桜の名所として有名な「吉野」にあやかって、「染井吉野」と名付けられました。

花が大振りで香りのよい「大島桜」と、花が咲いたあとに葉が出てくるという「江戸彼岸桜」。それぞれの桜の特徴を取り入れました。

接ぎ木で増えるので、成長スピードも速く、学校、沿道、公園など、様々な場所に植樹され、瞬く間に日本全国に広がっていきました。

ソメイヨシノの寿命問題

現代における花見の桜は8割がソメイヨシノです。ただし、ソメイヨシノは寿命が短く、およそ60年といわれています。

全国のソメイヨシノは戦前に植えられたものも少なくないため、多くのソメイヨシノが寿命を迎えているという問題が起きています。そのため、植え替えが急務となっています。

6章最後に

花見の歴史について紹介しました。参考になりましたか?

古来より日本人に大切にされてきた桜。時代の流行に押され、奈良時代には「梅」が主流となった時もありました。しかし平安時代以降~現代まで、桜が春の定番として認識されています。

今も昔も、日本人はパッと花を咲かせ、潔く散っていく桜に何とも言えない情緒を感じるのは変わらないでしょう。

花見の歴史を知る事で、今年の花見を2倍も3倍も楽しめるのではないでしょうか。
「こうして歴史は引き継がれていくのだな」と、今年の花見は一層、感慨深いものとなりそうです。

提供・はな物語

こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。

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