朝顔の歴史 江戸っ子も熱狂させたその魅力をたどる

夏の花といえば、何を思い浮かべますか?まずひまわり、そして朝顔をイメージする人は多いでしょう。

朝顔は育てるのが簡単で、また成長のスピードも速いのが特徴。夏休みに毎日観察して、日記に記録する宿題などもありましたよね。

玄関先や庭に置かれた涼しげな朝顔は、夏の風物詩として多くの日本人の心に存在しています。

でも実は、奈良・平安時代には「朝顔」と呼ばれる花が数種類あったことを知っていますか?当時は、朝に花が開く花をまとめて「朝顔」と呼んでいました。現代の感覚からすると、とてもおおざっぱですよね。

この記事では、そんな朝顔のルーツや、日本で広く愛されるようになった経緯を紹介しましょう。

江戸時代には空前の朝顔ブームまで起きています。現在でも夏には朝顔市が開催される地域もあり、その人気は今も変わりませんね。

朝顔が人々を魅了してきた歴史をみてみましょう。

1章 朝顔のルーツ

朝顔は、ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物です。葉は広三尖形で細毛があり、花は大きく開いた円錐形です。

この花は古来より日本にありますが、その原産地は日本ではありません。

原産地は中国

原産は中国で、「牽牛子(けんごし・けにごし)」、または「牽牛(けにご・けんご)」と呼ばれています。当時 、中国で朝顔は薬用植物として扱われていました。中国の『名医別録』(4世紀頃)にも記述があり、かなり古くから認知されていたようです。

牽牛子または牽牛という名前は、朝顔の種子と牛が交換されたとことに由来します。当時はとても貴重なものだったため、高値で取引されていた牛と交換していました。

日本への伝来

奈良時代末期または平安時代に、日本に伝わったとされています。

日本に到来したときも、やはり薬草として伝えられました。下剤の作用がある成分が含まれており、日本に伝来してからも長い間薬草として扱われてきました。

また、中国から入ってきた当時の朝顔は、現代の朝顔の姿とは違ったそうです。なんでも、丸い小さな青い花を咲かせていたそうですよ。

広島県の厳島神社に奉納された写経の巻物 「平家納経」(1164年)に、この青色の朝顔が描かれています。

2章 奈良時代 -朝咲く花なら何でも朝顔?-

実は、奈良時代には「朝顔」と呼ばれる花が複数ありました。その習慣をうかがわせる歌が『万葉集』に残っています。日本最古の和歌集『万葉集』には、朝顔を詠んだ歌が5首あります。

1首紹介しましょう。

「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけり」

現代語訳すると、「朝顔は朝露を浴びて咲くというが、夕方の薄暗い光の中でこそ輝いて見える」といったところ。

この歌を見て、「あれ?」っと気が付く人もいるでしょう。朝顔は朝に開花し、一番輝いているのも朝のはず。夕方にはしぼんでいます。

実は、この歌に出てくる「朝顔」は、桔梗(キキョウ)や槿(ムクゲ)をさしているといわれています。

というのも、当時は朝に咲く性質のある花をまとめて「朝顔」と呼んでいました。

つまり、中国から朝顔(牽牛子)が伝わる前から、日本には「朝顔」と呼ばれていた花が複数あったということです。

その後、朝顔(牽牛子)が中国から伝わると、朝しか咲かない朝顔(牽牛子)こそ、「朝顔」という名にふさわしいと考えられるようになりました。

ちなみに、「朝顔」という名前は朝に咲いて、その後しぼんでしまう花の生態を表したものです。その様子は、朝の女性の美しい横顔に似ていると考えられました。

人は日中仕事などしていると、だんだんお疲れモードの顔になりますよね。「朝顔」とは、朝や日中だけ咲く花も人も、一番美しいのは朝、という例えでもあるのでしょう。

3章 平安時代 -「朝顔」の区別-

朝顔(牽牛子)と、朝に咲く花一般としての「朝顔」の区別は、平安時代より徐々に広がっていったようです。

ただし、どこまで明確に区別していたのかは諸説あります。
例えば、清少納言の『枕草子』の第46段「草の花は」にも、朝顔は出てきます。

そこでは、朝顔を「大和のなでしこ」として、女郎花(オミナエシ)、桔梗(キキョウ)、刈萱(カルカヤ)、菊、壷すみれと並べて褒めた讃えています。

ここで清少納言は少なくとも朝顔と、 桔梗(キキョウ)を区別していることがわかりますよね。

また、和歌にも朝顔、牽牛子という言葉はたびたび出てくるようになります。
1006年ごろ成立したとされる和歌集『拾遺集』から1首紹介しましょう。

「君こずば 誰に見せまし わが宿の 垣根に咲ける 朝顔の花」

現代語訳すると、「あなたが来ないのなら、垣根に美しく咲いている朝顔を誰に見せればいいのでしょう(見せる人はいない)」といったところでしょうか。

『源氏物語』では、「朝顔の君」など作中人物の名前や巻名にも使われています。

平安時代では、朝顔(牽牛子)と、朝に咲く花全般の「朝顔」の両方が人々に認知されていたと推測されます。ただし、歌や文学作品に登場する「朝顔」という言葉を見ているだけでは、厳密にどの花をさしているのかはまだわかりません。

4章 江戸時代の朝顔 -2度の朝顔ブーム-

時を経て江戸時代になると、朝顔(牽牛子)と朝に咲く花全般の「朝顔」は明確に区別されていました。

また、江戸時代は草花の品種改良が盛んに行われていた時代。イギリスの植物学者のロバート・フォーチュンは1860年に江戸を訪れると、「世界一の園芸都市」と称賛したほどです。

数多くの草花の新種が生まれる中、朝顔は空前のブームを起こします。

第1次朝顔ブーム

江戸末期の文化・文政期(1804~1830)になると、第一次朝顔ブームが到来。

このブームの発端は、1806年に起きた江戸大火(丙寅の大火)にあります。この火事により、下谷(現在の東京都台東区)に大きな空き地ができたのです。そこで植木職人たちが品種改良した朝顔を栽培し、人々の注目を集めました。

特に、現代では「変化朝顔」呼ばれる、一風変わった姿の朝顔が人気を集めたようです。八重咲きや、花びらが細くなっているもの。 または一見桔梗(キキョウ)にも似た朝顔まで開発されました。

また、江戸後期に活躍した読本作者の曲亭馬琴(きょくてい ばきん)の記録によると、黄色の朝顔も作られていたようです。

それらの珍しい朝顔は菊などと並んで高値で取引されたといいますから、当時の朝顔熱は相当のものだったのでしょうね。

この朝顔ブームに目を付けたのが収入の低い下級武士たち。独自に朝顔の栽培と品種改良を行い、内職していたそうです。

第2次朝顔ブーム

嘉永・安政期(1848~1860年)になると朝顔の第2次ブームが起こります。1200もの系統が生み出されたといますから、人々の朝顔熱はまだまだ冷めていないことがうかがえます。

朝顔図譜がたくさん出版され、朝顔の優劣を競う品評会が行われていました。

この第2次ブームをけん引したのは、植木屋の成田屋留次郎。自ら「朝顔師」と名乗り、朝顔の品種改良に没頭しました。また、商売のかたわら園芸に関する本の出版も行っていたようです。

留次郎は朝顔の品評会である「花合わせ会」を開き、さらにブームを盛り上げます。

また、北町奉行の鍋島直孝も朝顔栽培家として名が知られていました。江戸時代の銘花を集めた図鑑『朝顔三十六花撰』の序文を記した人物でもあります。

熊本でも朝顔ブーム

江戸から遠く離れた熊本でも朝顔ブームが起こります。もともと、この地では菊や椿、芍薬 などの園芸栽培が盛んでした。朝顔もやはり人気で、品種改良が盛んになったようです。

でも、江戸で流行った「変化朝顔」と異なったのは、従来の朝顔の姿を保っていたこと。珍しい姿の朝顔ではなく、あくまでも古典的な姿で、かつ大輪の朝顔が流行ったようです。

この当時開発された朝顔を「肥後朝顔」と呼びました。熊本で育成された6種の花、椿、芍薬、花菖蒲、菊、山茶花(サザンカ)、朝顔をまとめて「肥後六花」といいます。

5章 明治時代の朝顔 -その人気は不動に-

明治時代になると、朝顔栽培の拠点は下谷から入谷に代わります。朝顔人気は相変わらずで、「東京朝顔会」などの愛好会が結成されました。

この頃になると人々の嗜好が変わり、変化朝顔の中でも大輪咲きの朝顔の栽培が主流となっていきます。大輪先の朝顔になると 、直径が20cmを超すんですよ。

あでやかな大輪の朝顔が多く並んだ入谷の朝顔市は、多くの人でにぎわっていたそうです。

この入谷の朝顔市は、現在でも入谷朝顔まつり(朝顔市)として続いています。毎年7月に開催され、入谷鬼子母神を中心とした周辺に120軒もの朝顔業者が並ぶ一大イベント。100軒もの露店とともに多くの人出を呼ぶ東京名物にもなっているんですよ。

6章 朝顔にまつわるエピソード

朝顔には、日本の粋の文化を象徴するようなこんなエピソードも残されています。

安土桃山時代、織田信長と豊臣秀吉に仕えた千利休という茶人がいました。利休は茶道千家流を大成し、茶聖とも呼ばれた茶人です。

利休には独自の美学があり、その一つが詫びの茶室。質素で飾り気のない、静かな茶室をしつらえていました。

そんな利休は秀吉のお茶の先生でもありました。秀吉と利休の間には一輪の朝顔にまつわるこんなエピソードがあります。

利休の屋敷の朝顔が素晴らしく咲き誇っていると聞いた秀吉は、利休に庭をみせてほしいといいます。

ある朝、利休から招かれた秀吉が利休の庭で見たものは、花を全て刈りとられた朝顔でした。「朝顔なんてないじゃないか!」と驚く秀吉。

しかし、茶室を見ると、その床の間に一輪だけ朝顔が生けられていたそうです。

簡素な茶室に一輪だけ生けられた朝顔の美しさに、秀吉はいたく感嘆したそうです。利休の美学が、朝顔によって演出されたエピソードですね。

7章 最後に

朝顔の歴史について紹介しました。参考になりましたか?

朝顔は日本で改良技術が最も確立された植物の一つとなり、世界的に見てもこれほど形態が変化した園芸植物はないといわれています。

現在栽培されている朝顔を大きく分けると、江戸時代の「大輪朝顔」と「変化朝顔」です。当時の品種が現代にも継承されているわけですから、江戸時代の園芸技術の高さと、人々の情熱に驚かされますね。

ちなみに、朝顔は英語で「Japanese morning glories ジャパニーズ・モーニング・グローリー」ともいわれています。もともとは中国原産だった朝顔が、今では海外で日本の花として認識されているのです。

多様な遺伝子変異を持つ朝顔は、現在も遺伝学の研究材料として用いられているそうです。

このように先人が手塩にかけて育ててきた歴史を知ると、朝顔にまたさらに愛着が湧いてきますよね。

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こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。

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朝顔の歴史を調べる一助になれば幸いです。

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