もとは食品?ひまわりの歴史は人々に栄養をもたらしてきた歴史だった
もとは食品?ひまわりの歴史は人々に栄養をもたらしてきた歴史だった
大輪の花を咲かせるひまわりを見ると、いかにも「夏」という気分になりますよね。
学校で育てた経験があるという人も多いのではないでしょうか。
ひまわりはしばしば、太陽を象徴する花とされていますよね。その学名、Helianthus annuus(ヘリアンサス)は「太陽の花」を意味します。英語名はsunflower、和名は向日葵と書きます。太陽を追ってくるくると向きを変える生態をよく表した名前ですよね。
日本では観賞用として楽しまれることの多いひまわり。この花を県や市の花として指定する自治体も多くあるんですよ。
でも、もともとひまわりは鑑賞用としてではなく、食用として重宝されていた花なのです。
現代でも種の高い栄養価は評価されていますよね。
この記事では、北アメリカを出発点とするひまわりの普及の歴史と、もう一つの側面である食用としての歴史、両方からひまわりに迫ります。
ひまわりの歴史を深く知ると、信仰や食生活との密接な関係に驚かされますよ。
1章 歴史
1-1、古代北アメリカ
ひまわりの原産地は北アメリカで、その歴史は紀元前までさかのぼります。
タンパク質と脂肪を多く含むひまわりの種は、北アメリカの先住民族にとって欠かせない栄養源でした。すりつぶしたものを主食やお菓子として食べ、油も料理に使われていた可能性があるそうです。
油は食用以外にもボディーペイント等にも使用されていました。さらには薬として使っていたという記録や、茎は住居の材料にしていたとも。当時の人々がひまわりを衣食住にフル活用していたことがわかりますね。
1-2、インカ帝国
13~16世紀、現在の南米・ペルーやボリビア付近で栄えたインカ帝国では、ひまわりは太陽神の化身として崇められていました。花の模様の彫刻が祭壇に彫られ、神殿に仕える巫女は、ひまわりをかたどった純金の冠を身につけていたとか。
ひまわりの歴史と深い繋がりのある北米から南米のペルーにかけての地域では、今でも野生のひまわりが自生しているといいます。
アメリカのカンザス州では州花とされ、またペルーでは国花になっています。今でも重要な意味を持つ花であるということなのでしょうね。
1-3、ヨーロッパ
コロンブスのアメリカ大陸発見後、アメリカ大陸からヨーロッパへと様々なものが持ち込まれます。
ひまわりもその1つ。1569年にスペイン人医師のニコラス・モナルデスが伝えたとも、1510年に同じくスペイン人のとある人物が伝えたともいわれています。
当初は、「インディアンの太陽の花」「ペルーの黄金の花」と呼ばれていました。
その後しばらく、ひまわりはスペイン以外のヨーロッパの国々には広がりませんでした。17世紀、ようやくスペインからフランス、イギリス、ロシアへと広まっていきます。
このように、スペインはヨーロッパにおけるひまわりの伝道師的立場になりました。アンダルシア地方のひまわり畑は、今では有名な観光名所になっていますよね。
夏のイメージが強いひまわりですが、スペインは日本と比べて暑さと乾燥が厳しく、見頃は5月末から6月と早めに訪れるのだとか。アンダルシア地方より暑さがやわらぐ北スペイン地方では、7月頃でも見ることができるようです。
1-4、日本
ヨーロッパから中国に伝わったひまわりは、いよいよ日本へと入ってきます。
江戸時代の寛文年間(1661~1672年)に渡来しているようで、図解辞典である『訓蒙図彙(さんもうずい)』に、その記述を見ることができます。
ひまわりは「丈菊、俗に言ふ天蓋花、一名迎陽花」と紹介されていました。この「丈菊」こそ、日本におけるひまわりの最初の記述になります。
当時、このひまわりの絵を熱心に描いていた画家がいました。江戸時代後期に活躍した、酒井抱一(1761~1829年)です。優美な色彩の風景画や、美人画を多く残した画家で、やはりひまわりに惹かれた画家の一人だったのでしょう。
ひまわりの絵といえば、オランダの画家ゴッホを思い浮かべる人もいるでしょう。ゴッホは9点のひまわりの絵を残しています。古今東西問わず、ひまわりは人々を惹きつける花だったのですね。
ひまわりがその後、日本で広く普及していきます。
北は北海道から南は鹿児島まで、多くの都道府県・市区町村の花として指定されています。
また、特産品とするために栽培が奨励され、油や化粧品の原料となることもあります。
一面に広がるひまわり畑に迷路を作ったり、休耕田にひまわりを植え景観を美化したりなど、観光名所としての活用法も人気のようです。
2章 食用としての歴史
ロシアのひまわり栽培
ひまわりがヨーロッパに伝わったのち、ロシアではひまわりに含まれる油分に着目するようになりました。そして改良及び、大量栽培が開始されます。
でも、なぜロシアでひまわりが着目されたのでしょうか。それには宗教が関係しているのです。
ロシアは正教徒が多く、断食と食物品目の制限が行われる斎(ものいみ)の期間がありました。この間には、多くの油脂食品が禁止食品にされていたのです。
しかし、ひまわりは禁止食品に含まれることがなかったので、人々は抜け道としてひまわりの油分を口にしました。このことから、食用としてのひまわりの価値が広く知られるようになったのです。
1830年頃には商業レベルでひまわり油の製造が可能になりました。19世紀に入ると8億平方メートルもの巨大なひまわり畑で栽培を開始。ロシアはひまわりの一大生産国へと発展します。
さらに油脂用、食用といった目的別の品種改良も行われ、ロシア生まれのひまわりが世界へと伝えられていくようになります。
その中でもロシアンマンモス(別名マンモスロシアン)は、アメリカに入った後、100年以上続くロングセラー品種として愛されています。
現在でもロシアはひまわり油で世界一の生産量を誇っています。国花がひまわりなのも、自然なことといえますね。
アメリカにおけるひまわり加工
生産量ではロシアに遠く及びませんが、食文化でいえば、アメリカも独自の発展を遂げました。
アメリカでは、ひまわりの種は健康食品的な扱いで、スーパーでも買えるポピュラーな食品です。
栄養学的に見ると、ひまわりの種はカロリーが高く、疲労回復に役立つビタミンやミネラルが豊富で、さらに葉酸や鉄分、食物繊維なども含まれています。また、コレステロールがないという特徴もあります。
そのため、スポーツ選手にはとても重宝されている食品。メジャーリーグの試合中、しばしばひまわりの種を食べている選手が映し出されたりしています。
3章 最後に
ひまわりは当初、観賞用としてよりも食用として人々の生活に欠かせない花でした。
食物の少なかった時代では、栄養補給ができる貴重な存在だったのでしょう。
また、生命力を感じさせる黄色い花は、まさに太陽の象徴として信仰されていました。実用的でありながら、畏敬の念を持たれる花。数多くある植物の中でも、そんな花はめったにないでしょう。
次にひまわりを鑑賞する機会がきたら、ひまわりの歴史を思い出すことで、今までと違う視点からひまわりを見てみてくださいね。
提供・はな物語
こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。
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