紫陽花の歴史 くすぶっていた時代から人気者になるまで
梅雨の時期、どんよりした街の中で鮮やかな色の紫陽花をよく見かけますよね。雨に濡れている花はまた風情があり、花壇で咲いている紫陽花を立ち止まってみる人もいるでしょう。
また、梅雨の時期にたくさんの紫陽花を咲かせることで、観光名所になっている場所も全国にあります。鎌倉にある長谷寺も、紫陽花の名所の1つ。
梅雨の時期は観光客が多く音連れ、庭に入るのに1時間待ちなんてこともあるそうですよ。紫陽花の人気ぶりがうかがえますね。
日本人に愛され、知名度も高い紫陽花。実は、不思議な歴史を辿っている花なのです。
日本に古くから存在する品種で、奈良時代から記録があるにも関わらず、花としての人気がほとんどない時代が続きます。
今のように広く人気が出るようになったのは、第二次世界大戦後。
「梅雨といえば紫陽花」となっている今の感覚からすると、戦前は大して人気がなかったなんて信じられないですよね。
この記事では、紫陽花のルーツと日本におけるこれまでの歴史を辿ります。
今では考えられないような紫陽花の存在感のなさがわかる一方、歌などに詠まれていることから、ささやかながら日本人の生活に根付いてきたことがうかがい知れます。
紫陽花のことをもっとよく知れば、より興味深い鑑賞となりますよ。
目次
1章 由来
最初に紫陽花の品種などを紹介しましょう。
1-1、原産
紫陽花はアジサイ科アジサイ属の植物。原産は、日本に自生しているガクアジサイです。海岸沿いで自生することから「ハマアジサイ」とも呼ばれます。
ガクアジサイの花は、1つの花に雄しべと雌しべを持つ両性花です。両性花の花は多く、他に桜、朝顔、スミレ、菊、タンポポなども該当します。
このガクアジサイは、中心部に雄しべと雌しべがあり、その周りを小花が6~9個で囲んでいます。園芸用語では「額咲き」といいます。
でもこの小花、花ではないんですよ。実は装飾花と呼ばれる「がく」なのです。がくとは、花びらの外側にある花葉のこと。一般的には葉と同じく緑色をしていますが、紫陽花はまるで花のような見た目をしています。
では花びらはどこなの?と思うでしょう。紫陽花の花びらは、このがくの中心にある、小さい玉なのです。小さな花びらが5枚ほどついた花が咲きます。
広く紫陽花としてイメージされているのは、このガクアジサイが変化したホンアジサイです。
ホンアジサイは、小花がこんもりと密集して、球状になっているもの。「手まり咲き」と呼ばれます。よく花壇や公園などで見かけますよね。
また、ヨーロッパでもガクアジサイを元に品種改良が行われています。ヨーロッパで作られた紫陽花をセイヨウアジサイといい、日本に逆輸入されてさらに改良されています。
この記事では、これらアジサイ属植物をまとめて紫陽花と呼びます。
1-2 花言葉の由来
ここでは紫陽花にまつわる花言葉と由来について説明します。
紫陽花にはさまざまな花言葉があり、捉え方ひとつで意味が全く違ってきます。
移り気、浮気
紫陽花は、酸性土壌で青く、アルカリ性土壌で赤くなるといわれています。(他にアルミニウムも関わる)
弱酸性の土壌であることが多い日本では青色として親しまれていても、アルカリ性土壌のヨーロッパでは赤くなってしまうのです。
この変化のしやすさが、人の気持ちが移り変わるように見え、「移り気・浮気」といった花言葉となったといわれています。
一家だんらん
小さな花がたくさん集まって一つの大きな花に見えることから、家族の繁栄と仲の良さを象徴しているとされます。これはホンアジサイに該当する花言葉ですね。
ネガティブな花言葉が先行し、かつてはお祝いの贈り物として避けられていました。特に恋人に贈る場合や、結婚祝いの花としては避けた方がいいと考える人もいるようです。
しかし、花自体の美しさや、ポジティブな花言葉も浸透してきたことで、紫陽花が結婚式に用いられることも増えてきたようです。
母の日の贈り物として、カーネーションではなく赤い紫陽花を贈るのも人気です。
1-3、漢字
漢字を「紫陽花」としたのは、平安時代中期の歌人・学者である源順(みなもとの したごう)です。
源順は、中国の白楽天の詩に登場する「紫陽花」の特徴から、ガクアジサイを同じ花と考え、この漢字を当てました。
しかし紫陽花は日本原産ですからこれは誤りで、白楽天が詩に詠んだ花とは違うとされます。
2章 日本における紫陽花の歴史
現代では人々に愛されている紫陽花ですが、戦後まではあまりクローズアップされない花でした。
2-1、奈良時代 -詠まれた歌は2首-
日本において紫陽花が書物に登場したのは『万葉集』が最初です。万葉集は奈良時代に作られた最古の詩集。多くの草花が詠まれています。
紫陽花も詠まれていますが、数はわずか2首にとどまっています。
この2首の中で、紫陽花は「味狭藍」「安治佐為」と記述されています。まだ表記が統一されていなかったことがわかりますね。歌をみてみましょう。
「言問はぬ 木すら味狭藍 諸弟(もろと)らが 練の村戸(むらと)に あざむかえけり」
【現代語訳】
物言わぬ木でさえ、紫陽花のように移り変わりやすい。諸弟らの巧みな言葉に、私は騙されてしまった」
色を変えながら枯れていく紫陽花の様を、ころころと言葉や態度を変える人に例えています。当時から色の変わりやすい花という認識があったことがうかがえますね。
「安治佐為の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ(しのはむ)」
【現代語訳】
紫陽花のように群がって咲く花のように、いつまでも健やかにおいでください。この花を見るたびにあなたを想います
万葉集にはこの2首しか入っていないことをみると、奈良時代ではさして人気があった花ではなさそうですね。
2-2、平安~鎌倉時代 -言葉遊びとしての紫陽花-
平安時代に編纂された漢字辞典『新撰字鏡』(894~900年刊)には「安治左井」と記されています。
また、平安中期に作成された辞書『倭名類聚抄』(930~937年刊)には「安豆佐為」との記述があります。このことから、当時も「アジサイ」または「アズサイ」と呼ばれていたと思われます。
現在語源として有力なのが、「集真藍」(アズサアイ)がなまったとされる説です。
「あず」はものが集まることを意味しています。青い花が集まって咲く様を言い表した名前といえますね。
しかし、紫陽花の人気の低さはあまり変わりませんでした。平安時代を代表する書物、『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』などには、一切紫陽花の記述がないようです。
方や、歌にはしばし詠まれることがあったようです。ただし、それは紫陽花の美しさなどを詠うというより、言葉かけとして使われていたケースもありました。
平安時代に編纂された『古今和歌六帖』には、このような歌が載っています。
「あかねさす 昼はこちたし あぢさゐの 花のよひらに 蓬ひ見てしがな」
【現代語訳】
「昼は人の噂がうるさいので、紫陽花の花びらが4枚(よひら)であるように、宵(よひ)になったら逢いたい」
ここでは、「花のよひら」が紫陽花の花びらが4枚であることを意味しています。この「よひら」と、宵の「よひ」という言葉をかけているのです。
紫陽花を詠ったというより、紫陽花を使った言葉遊びの歌といえますね。
2-3、安土桃山時代 -初めて画壇に登場-
小さな花が集まって球状に見える、手まり咲きの紫陽花の記録があるのは、桃山時代に入ってからです。
この頃には画家によるもっとも古い紫陽花画が登場します。作品名は「松と紫陽花図」。織田信長や豊臣秀吉にも仕えた画家、狩野永徳の作です。現在京都の南禅寺に所蔵されており、重要文化財に指定されています。
2-4、江戸時代 -植木屋からの冷遇-
江戸時代になると、やはり時代を代表する画家、尾形光琳や俵屋宗達、酒井抱一によっても描かれています。
文献では、江戸時代の日本初の園芸書『花壇網目』(1664)、あるいは『花壇地錦抄』(1696)に登場します。
しかし、それでも記述は少なかったようです。
当時の江戸は世界に誇れる園芸文化が根付いていました。今では見られない品種も開発されていたようです。
一方、紫陽花の人気はいまいち。むしろ、植木屋にはやや嫌がられていた存在でした。というのも、紫陽花は繁殖が容易な花。折った茎を土に植えておくだけで、株がどんどん増やせます。
だれでも簡単に植えて花を咲かせることができるため、植木屋としては紫陽花は商売にはならないということでしょう。
ただし、俳句や川柳には多く取り上げられました。松尾芭蕉もこのような句を残しています。
「紫陽花や帷子時の薄浅黄」
【現代語訳】
帷子(かたびら)とは、麻などで作ってある夏用の単衣のこと。当時は初夏に浅黄色の帷子を着る習慣がありました。
初夏はちょうど紫陽花が咲く時期。芭蕉は浅黄色と同じ色をした紫陽花が咲いた様子を詠ったとされています。
また、紫陽花は画壇でもしばし描かれています。葛飾北斎も「あじさいに燕」という絵を描いています。濃淡で色づけされた紫陽花が印象的な作品です。
幕末には、紫陽花には欠かせないエピソードが生まれます。
幕末、シーボルトとうドイツ人医師が日本に滞在していました。シーボルトはお滝という日本人女性と恋仲となります。彼女を深く愛していたシーボルト。
彼は自分の好きな花である紫陽花に、お滝さんの名前にちなんだ名をつけようとします。その名は「Otakusa」。
しかし、紫陽花には別の学術名がすでにあったため、認められることはありませんでした。
その後、シーボルトは国籍を偽って滞在していたことが発覚。国外退去処分となり、オランダに1人で帰国します。帰国後、植物学者のツッカリニと共に『日本植物誌』を著しました。その中でアジサイ属の花14種を新種として紹介しています。
2-5、明治・大正時代 -やはり人気は出ず-
紫陽花の人気のなさは、明治になってもやはり変わらなかったようです。
紫陽花は1789年には、中国に伝わっていたものがロンドンに送られました。1900年代のはじめにはフランスで育種がスタートし、これがセイヨウアジサイへと発展します。
大正時代には西洋で改良を受けた紫陽花が日本に入ってきます。
しかし、今日のように普及するまでにはいたりませんでした。
2-6、戦後 -観光資源としての紫陽花-
第二次世界大戦後、ようやく紫陽花にも人気が出てくるようになります。そのきっかけの1つに、観光資源として注目されたことが大きい関係しています。
全国には、紫陽花の名所が数多くあります。
例えば鎌倉では、明月院と長谷寺が有名です。紫陽花の見頃には観光客が詰めかけます。
紫陽花の名所となるお寺はしばし全国に見られますが、なぜお寺に紫陽花が植えられるようになったのでしょうか。
それは紫陽花が死者に手向ける花だと考えられたことに由来します。特に流行病が発生した地域では多く植えられました。
時代が進み、流行病で多数の死者が出ることはなくなりました。しかし、紫陽花は増やすのが容易であること、見た目が美しいことから全国のお寺で植えられるようになりました。
そして今では、観光名所として地域の集客効果の向上にも一役買っているのです。
3章 最後に
紫陽花の歴史について紹介しました。参考になりましたか?
日本にずっと存在しながら、長らく日の目をみない花であった紫陽花。
現在では多くの人に愛され、その鮮やかな色で人々を惹きつけます。
変わりやすい色もかつては敬遠される原因でした。でも今では、多様な色のバリエーションが、お祝いやプレゼントに使いやすい要因となっています。
庭に咲いた紫陽花を部屋に飾っても素敵ですね。大ぶりの花なため、1本だけでも寂しい感じにはなりませんよ。
紫陽花を愛でて、梅雨の季節を楽しんでみてくださいね。
提供・はな物語
こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。
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紫陽花の歴史を調べる一助になれば幸いです。
季節を問わず、美しい花を眺めると心が安らぎますよね。
インテリアとして飾る花なら、美しい姿を長くとどめるプリザーブドフラワーもおすすめです。