菊の歴史は日本文化とともにあり 高貴な花が愛される理由とは?

日本人が長く親しんできた花といえば、何を思い浮かべますか?桜、梅、桃、そして菊をイメージする人は多いでしょう。

菊は古くから人々に愛されてきた花です。菊には長寿の力があるとされ、時に薬として、時に心を和ませる鑑賞植物として、古くから日本人に愛されてきました。

現在でも、お供え花として、家紋として、食用ギクとして私達の生活に切り離せない花として重宝されていますよね。

例えばバラやユリはお祝いのときなどに飾る「特別な花」という印象があります。対して、菊は生活の中に溶け込んでいる、かなり身近な花といえます。

もともと、菊は中国原産の花です。日本に伝わって以来、日本文化の中で長い間人々を魅了してきました。品種改良も盛んで、日本の菊はヨーロッパでも高い評価を得ているんですよ。

この記事では、そんな菊の歴史をまとめています。日本独自の改良が繰り返され、また「菊細工」と呼ばれる芸術品も生み出されていきました。また、家紋としても広く図案化された経緯もあわせて紹介します。

日本にやってきた菊が、どのような歴史を辿り、今の私達の生活に華を添えるのか、みていきましょう。

1章 菊の歴史

菊はどんな歴史を辿って、今の私達にとっても欠かせない花となったのでしょうか。その歴史を詳しく見ていきましょう。

1-1、原産地は中国

菊の原産地は中国で、その歴史は3000年以上前にさかのぼります。

前漢(紀元前206~8年)に書かれた儒教の経書、『礼記(らいき)』に「鞠」という植物が登場しています。キク科植物研究の第一人者である北村四郎は、この花は中国北部に生息しているセイアンアブラギクか、ホソバアブラギクだろうと推測しています。

現在使われている「菊」という漢字も「鞠」に由来します。
ちなみに、キクは「菊」を音読みしたもの。散らばった米を一か所に集める様子を示した漢字です。菊の花びらが、米に見立てられているとされます。

また、中国最古の類語辞典『爾雅(じが)』や、詩集『楚辞(そじ)』にも、菊とみられる植物が紹介されています。

本草書である『神農本草経』には、薬としてその効力が記されています。なんでも「軽身耐老延年」とあり、健康長寿に効果があると考えられていたようです。

もともと、中国で菊は神聖な力を持つ薬として珍重されていました。漢時代には、のちに日本に伝わる「重陽の節句」の元となる行事がすでに行われていました。この行事では菊の香りをつけた菊酒を飲み、健康長寿を祝っていたのです。

菊の栽培が本格的に始まったのは、梁(502~557年)の時代と考えられています。唐(618~907年)の時代以降、改良品種が盛んになっていきました。

1-2、平安時代に日本へ

菊は8~9世紀の平安時代に中国から伝わったと考えられています。

初めて菊が書物に登場したのは、平安時代に書かれた歴史書『類聚国史(るいじゅこくし)』。そこには宮中で催された宴で、桓武天皇が詠った歌が載っています。

「このごろの しぐれの雨に 菊の花 散りぞしぬべき あたらその香を」

現代語訳すると、「この頃の時雨の雨に、菊の花が散ってしまいそうだ。悲しいことに香りも消えてしまうのだろう」。雨に散ってしまう菊とともに、その豊かな香りも消え失せてしまうと惜しむ気持ちを詠っています。

この歌は菊を詠んだ最古の和歌と考えられています。ただし、当時はまだ菊はそれほど浸透していなかったようですね。

平安時代になると、菊は宮中で人気の花となっていきました。頻繁に詠まれ、『古今和歌集』に菊に関する歌が多く収められています。

薬として、または観賞用として、貴族達の生活に華を添えていたようです。

ただし、奈良時代にはすでに菊は日本に伝わっていたのではないかという説もあります。奈良時代に編纂された日本最古の和歌集『万葉集』には、このような歌が残されています。

「父母が 殿の後方(しりへ)の 百代草(ももよぐさ) 百代いでませ わが来たるまで」

現代語訳すると、「お父さん、お母さん、屋敷の後ろに生えた百代草のように、百代まで長生きしてください。私が帰るまで」といったところ。
両親を残し、生まれた故郷を離れることになった人が詠んだ歌と推測されています。

ここに出てくる「百代草」は菊をさしているのではないかという研究もあります。つまり当時すでに菊の原種が日本にあったということ。それが中国に伝わって品種改良され、日本に戻ってきたというのです。

また、奈良時代に遣唐使によりすでに日本に伝わっていた、という説もあります。
確かに、奈良時代に遣唐使によって、当時の中国文化や品物が多く日本に伝えられていました。その中に菊があっても何も不思議はありませんよね。

1-3、江戸時代に菊ブーム到来

時代の流れとともに、菊は貴族から武士へ、武士から庶民へと人気が広がっていきました。それらの菊はすでに品種改良がなされ、過去に中国から輸入された面影はなくなっていたようです。

江戸時代になると園芸ブームが到来。菊に限らず、多くの草花の品種改良が加速していきました。

特に現在の駒込・巣鴨周辺には植木屋が密集し、草花の品種改良の中心を担っていきます。さらに、幕府が五節句を正式に制定し、9月9日を「重陽の節句」としたことで菊の人気が急上昇。重陽の節句では、菊の花びらを散らせたお酒をあおり、長寿を祈ったためです。

また、菊を使った花壇に菊を寄せて植えた「花壇菊」、集めた菊で富士山などを模す「形づくり」が盛んに作られていきます。そうした「菊細工」を見て、江戸っ子もさぞ楽しんだのでしょう。駒込や巣鴨の植木屋に人が押し寄せて見物したそうですよ。

1-4、古典菊の誕生

江戸時代には現代にも伝わる菊が作られています。江戸、伊勢、京都、熊本など、各地域で独自に発展を遂げ、それらの品種をまとめて「古典菊」といいます。

古典菊には、その品種が生まれた地域の名前がつけられています。例えば、江戸で開発された菊なら「江戸菊」。

長野と岐阜にまたがる地域で開発された菊は「美濃菊」です。中でも江戸菊は1位、2位の人気を誇りました。「正菊」とも呼ばれ、菊といえば江戸菊をさすこともあったようです。

また、古典菊には同じ菊とは思えないほど、それぞれに特徴があります。例えば、江戸菊の場合、咲き始めから終わりにかけて、徐々に花の形が変化していきます。

また、季節外れに咲くことも多かったことから、「狂い菊」とも呼ばれていたようです。

他方、美濃菊は岐阜県南部の美濃地方で品種改良されました。野菊を元に長い年月をかけてつくり出され、現在の形になりました。八重咲きした姿は、蓮の花にも似ています。

こうして日本独自の発展を遂げた菊は、その美しさから、のちに中国に逆輸入されていくようになりました。

1-5、芸術にも取り入れられる

江戸っ子の菊人気が高まると、菊は鑑賞用だけではなく、芸術の場でも求められるようになっていきました。

18世紀頃、中国の清(1636~1912年)時代に作られた彩色版画絵手本『芥子園画伝(かいしえんがでん)』の模刻版が刊行されます。

この絵画手本には、草花や動植物の書き方が克明に記されていました。江戸中期の画家、与謝蕪村や浮世絵技術にも大きな影響を及ぼしたとか。

この本の中で菊の描き方に関する解説があり、見事な見本が掲載されています。大輪の菊は豪華絢爛な花の象徴とされ、ダイナミックに描かれていたようですね。

また、歌舞伎にも菊ブームは反映されました。当時の歌舞伎は庶民の娯楽であり、その時々の流行を巧みに取り入れていました。

「鬼一法眼三略巻」は、江戸時代でも人気が高かった源義経が題材。舞台に菊畑を再現したり、セリフの中であえて菊の名前を登場させていたりしたそうです。

1-6、世界を驚かせた江戸の園芸市場

日本で品種改良された菊に、心を惹かれた植物学者がいました。スコットランド出身のロバート・フォーチュンです。彼は東北アジアの植物に強い関心を持ち、1860年に日本と台湾を訪れています。

その際、養蚕や稲の栽培を視察するとともに、染井、王子の植木村を訪問しました。そこで見た世界最高水準ともいえる「菊」の園芸市場に大変驚いたのだとか。

フォーチュンによって海外に紹介された菊は、その美しさゆえ、西洋でも注目をあびました。もともとイギリスには1789年に中国より菊が伝わっています。しかし、いまいち人気が出なかったようですね。

フォーチュンが持ち帰った日本の菊は品種に富み、それだけインパクトが強かったのかもしれません。それ以降、イギリスでは菊の栽培が盛んになり、日本の菊が西洋の園芸育種に大きな影響を与えたといわれています。

1-7、大菊の開発

明治時代になると直径18cm以上の「大型の菊」が流行します。厚物、大掴み、管物、一文字などの種類に分けられます。具体的に花の特徴をみていきましょう。

厚物(あつもの)

数百枚の花弁が、うろこ状になって、天井の一点に向けて高く盛り上がって咲く菊。

厚走り(あつばしり)

厚物の花の下に、まっすぐな管状の太い花びらが放射状に広がって咲く菊。

大掴み

花の上部が、両手でギュッと掴みあげられたような形状に盛り上がり、花の下部には走り弁が太くたくましく垂れ下がった形状の菊。

管物

管状の花びらが真っすぐに伸び、花弁の先は毛玉のように丸まっています。 管の大きさで「太管」「間管」「細管」に分けられています。

広もの

一重咲の「一文字」と、八重咲の「美濃菊」があります。
一文字は、天皇家の家紋のモデルとなり、別名「御紋章菊」ともいわれています。

2章 食用菊の種類と効果

もともと、古代中国で菊は薬として食されていました。現代でもお浸しにして食べたり、料理の飾りにしたりして使われていますよね。
食用としての菊の歴史はいつから誕生したのでしょうか。

2-1、民間での食用菊は江戸時代から

日本における菊が食用として本格的に発達したのは江戸時代。中国から伝来した菊を原型に、苦味を取り除き、花弁を大きくする改良がなされました。

ほのかな香りと、シャキシャキとした食感が特徴です。あの松尾芭蕉も好んで食べたのだそうですよ。

いくつか品種を紹介しましょう。

延命楽

紫色で大ぶりの菊です。味、香り、食感に優れ、食用菊の中で最も高い評価を得ています。食用菊の6割のシェアを占めています。

最大の産地である山形県では「もってのほか」「もって菊」と呼ばれています。この名前は、「天皇の紋章の菊の花を食べるなんて、もってのほかだ」「もってのほかの美味しさだ」から転じて、命名されたなどの所説があります。

また、山形県では「カキノモト」と呼ばれています。

阿坊宮

濃い黄色の菊です。花びらをばらしてちらし寿司に混ぜたり、お吸い物などの飾りとして使われていることもありますね。

青森県八戸市の特産でもあります。

小菊

名前の通り、小さな黄色い菊です。魚のお造りなどに添えられているのを見たことがある人は多いでしょう。一見タンポポに似ているため、勘違いしている人もいるようです。

「秋月」「「こまり」「金綿」などの品種があります。

2-2、菊は優良食材?!

菊にはビタミン類が多く含まれています。

また、体内の解毒物質「グルタチオン」の生産にも効果があるとされています。

民間療法でも菊は古くから取り入れられてきました。目の疲れや視力回復に役立ち、高血圧の改善に用いられてきたそうです。漢方では風邪に効くとされ、鎮痛作用や解毒作用、解熱作用に最適。

また、最近の研究によると菊には、動脈硬化の原因となるコレステロールや中性脂肪を下げる効果があるとか。

豊かな香りと美しさだけでなく、健康にも役立つ菊。古くから重宝されるには、こんな理由があったのですね。

3章 なぜ家紋に使われるようになったの?

「家紋」とは、その家固有の目印的な紋章のこと。血統や家柄、家系を示すシンボルマークとしての役割があります。

家紋のデザインには様々な草花が使用され、山桜、キキョウ、五枚笹、葵、梅、橘などがあります。テレビドラマの水戸黄門では、敵を成敗したあとに印籠を出しますよね。その印籠に刻印されているのは徳川家の家紋、三つ葉を図案化したもの。

また、織田信長を討ったとされる明智光秀の家紋はキキョウです。

多くの家紋のデザインがあり、菊を図案化した家紋も数多くあります。
中でも天皇家の紋章として有名なのは菊紋章。

天皇家のみならず、パスポートや、日本勲章などでも菊がモチーフとされています。菊が紋章に好まれ、国家の象徴として扱われる理由を見てみましょう。

3-1、天皇家の紋章はなぜ菊なの?

天皇家の家紋に菊が使われるようになったのは、後鳥羽上皇の菊好きに由来します。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて即位していた82代天皇の後鳥羽上皇は、大の菊好きでした。衣服、刀などのあらゆる品に、菊紋章をつけていたといいます。

それ以来、89代後深草天皇、90代亀山天皇、91代後宇多天皇へと菊の紋章が引き継がれます。そのことにより、菊花紋=「十六八重表菊」が皇室の紋章として使用されるようになったのです。

また、菊の原産地である中国では、菊は権力・尊厳・崇高のシンボルでした。高貴な品格、豊かな香りゆえに、日本でも貴族や皇室に寵愛されてきたのでしょう。

1868年には、菊が最高の権威の象徴とされ、「十六弁八重表菊紋」つまり天皇家のみの紋章として規定。貴族で十六弁の菊紋章を使っていた場合は、「十四裏菊」や「十六裏菊」に変更するなど、重ならない工夫がされたようです。

1871年には、皇族以外(天皇から賜った場合は別)の菊の紋章使用が禁止され、もしも一般人が菊の紋章を使うようであれば、罪に問われました。

3-2、人々の間で「菊紋章」が大流行

菊紋章が天皇家のみの家紋となる前は、菊紋章は多くの家系で用いられていました。例えば、公家では、広幡家(ひろはたけ)、水無瀬家(みなせけ)、七条家(しちじょうけ)、桜井家などが菊紋を使用。

武家では、後鳥羽上皇に尽くした楠木正成の「菊水紋」が有名です。武家に使用され菊紋章としては、以下のものがあります。

  • 三つ盛菊
  • 籬架菊
  • 二つ雁に菊水
  • 輪違いに菊
  • 亀甲の内に菊

皇室から公家や将軍へ、公家から武家へ、武家から家臣へと功績をたたえて菊紋が与えられたとされていきました。功績や相応の身分に応じて菊紋章が与えられていったのです。

しかしながら、正式なステップを踏まずに、「密かに菊紋章を作り、利用する人」もたくさん出てきました。1591年(天正19年)と1596年(文禄4年)に菊紋章の乱用が禁止され、取り締まりが行われた程だったといわれています。

時を経て第二次世界大戦後、菊紋章は自由に使用できるようになりました。
その為、現在でも菊紋章を家紋として使っている場合は、以下の3パターンが考えられます。

  • 皇族
  • 戦前に天皇から菊紋章を与えられた
  • 戦後に自ら菊紋章を作り、使用し始めた

家紋の他にも、パスポートや、日本の勲章、国会議員の議員記章にも菊がモチーフとされ、菊=国花に準じた扱いを受けています。国旗に準じた扱いとなる為、類似した商標等は登録できないとされています。

菊の高貴なイメージから皇室や貴族、庶民に愛され、日本の歴史と歩んできた菊。それ故、国家を象徴する花として捉えられるのかもしれませんね。

4章 菊人形とは?

菊人形とは、その名の通り、色とりどりの菊が人形に飾られた品のこと。手足、頭は人形、胴体部分に菊があしらわれた、等身大の人形です。菊人形がどのようにして生まれ、日本でなじみのある物となったのか、その歴史を紹介しましょう。

始まりは江戸時代

江戸時代に菊の品種改良が進み、たくさんの菊が生み出されました。当時、世界最高水準の園芸センターといわれた江戸の染井や、巣鴨の周辺で流行した菊細工を起源としています。

現在ではその面影はありませんが、江戸~明治にかけて団子坂(現在の文京区千駄木)で園芸業者が競うように菊人形を展示し、日本全国に広まっていったとされています。

菊人形の現在

1909年、両国国技館で斬新な菊人形興行が行われたことにより、団子坂の菊人形のメッカとしての地位は後退していきました。その後、菊人形は全国で見世物興行として流行し、現在でも、遊園地などで見かける事もあります。

ただし残念な事に、少子化・レジャーの傾向の変化により、菊人形は減少傾向にあるようです。

5章 最後に

菊の歴史に関して紹介しました。参考になりましたか?

菊は中国からもたらされ、平安時代中期までには、皇族・貴族の生活に欠かせない存在だったようです。時代と共に一般庶民にも広がり、江戸時代には江戸っ子を湧かせる菊ブームまで起きていたとは、驚きですよね。

現在、よく見かける菊は、その多くが江戸~明治時代にかけて生まれた菊なのです。その香りは邪気を払うという理由から、仏花としても定番ですよね。お葬式で使われる花だと、あまりよくないイメージを持つ人もいるかもしれません。

でも実際は高貴で貴重な花ゆえに、仏花としても重宝されているのです。

現在では300種類を超える菊が存在します。1輪でも存在感抜群の菊は、お家のインテリアにもとっても映えます。

「昔の人もこうして菊を愛でたのかな」と、思いも巡らせてみてはいかがでしょうか。一味違う、菊の鑑賞となりそうですね。

提供・はな物語

こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。

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菊の歴史を調べる一助になれば幸いです。

季節を問わず、一年を通して美しい花を愛でるのはいいものです。

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