華道の歴史 衰退危機を乗り越えてより自由な生け花へ
日本の伝統的な芸事の1つといえば、生け花ですよね。四季折々の花が咲く日本で人々は昔から草花を愛で、日々の彩としてきました。
生け花の流派が成立したのは室町時代です。それ以降、様々な流派が誕生し、独自の理念や技巧を広めてきました。
ただし、現代の人からすると生け花って小難しい芸事のようにもみえますよね。確かに、明治時代などは、生け花は女性のたしなみとして教養を示す習い事でした。
しかし、時代の変化に伴い、生け花も変化を遂げてきました。今では必ずしも形式ばかりを重んじた、堅苦しい習い事ではなくなってきています。
この記事では、そんな生け花の歴史をまとめました。日本人の繊細な感性によって発展してきたとも言える生け花の世界を紹介しましょう。
目次
1章 飛鳥時代-生け花の源流の誕生-
日本の華道の源流は飛鳥時代まで遡ります。6世紀、日本に仏教が伝来すると、仏に花を供える風習(仏前供花)が定着していきました。これが生け花のルーツとされています。
一方、日本では古来より草花に神が宿ると考えられてきました。神の依代とされていた常緑樹をはじめ、草花を飾り祭る風習が生け花のルーツになったという説もあります。
2章 室町時代-生け花の成立-
文化が発展した時代
生け花が成立したのは室町時代。この時代の文献に初めて、「生け花」としての花の構成と鑑賞が登場しました。
室町時代といえば、茶の湯、能楽、書院造りなど、文化芸能が花開いた時代でもあります。
今まで、文化の担い手といえば貴族が中心でした。しかし、平安時代の終わりと共に武士が台頭。時代の移り替わりとともに、文化の担い手も武士たちになっていきました。彼らは大名などをパトロンに持ち、積極的に新しい芸術を模索していったのです。
池坊の誕生
生け花の最初の流派とされるのは池坊です。京都六角堂の僧侶、池坊専慶が武士に招かれ花を挿したことが、生け花の成立に大きく貢献しました。専慶が生けた花の見事さからひと目見ようと、多くの観衆が訪れたことが文献に書かれています。
この事からも分かるとおり、池坊は日本最古の流派であり、「池坊の歴史は生け花の歴史」と言われています。
書院造りの建設で発展
室町時代は中国の唐より、多くの伝統工芸品などを輸入していました、それらを飾り、見物しに来た客人を迎える居住空間として、書院造りが考案されます。書院造りとは、日本の木造住宅の原型になった建築様式でもあります。
将軍足利氏ら時の権力者の邸宅や寺院にあった、床の間の原型である押板などには花瓶が飾られるようになります。その際、花瓶の中央に枝を立てる「立花(りっか)」などが徐々に生み出されていきます。
「立花」は草花をもって森羅万象を表現し、その調和の中に美を見出すという考えに基づいた生け方です。この型は長きにわたって生け花の形式に大きな影響を与えました。
立花の名手として、文阿弥初代、文阿弥二代目が有名です。この文阿弥と池坊の創始者である専応は、美しい花をいけるライバルとして人々の注目を集めていたともいわれています。
また、3代目将軍・足利義満は花好きとして知られていました。金閣寺では、花瓶に花を立てて鑑賞する「法楽」が盛んに催されていました。
花伝書の出版
日本最古の花伝書は池坊の秘文『花王以来の花伝書』といわています。40以上の花に関する図などが記されています。
11代目池坊専応は専慶以来の池坊の生け花の理論をまとめ、花伝書を弟子に相伝し始めます。
専応は『池坊専応口伝』の中で、単に美しい花を愛でるだけではなく、時には枯れた枝をも用いて、自然のありのままの姿を器の上に表現するのだと伝えています。
1968年、ノーベル文学賞を受賞した川端康成は受賞記念講演「美しい日本の私」の中でこの教えに触れています。一流派の教えが、日本人の美意識に深く影響を与えていることを示したのです。
3章 安土桃山時代-茶花の影響-
安土桃山時代になると、千利休によって茶の湯が大成されます。その中で、利休の「わびさび」の教えが大きく影響している茶花も成立しました。
千利休は茶の湯の心得(利休七則)のなかで、「花は野にあるように」と説きました。つまり、花は自然の風情そのままに、花器に入れるのが良いというのです。
四季の花を用いて、香りの強いものは避ける。このような茶花の生け方は生け花にも大きく影響を与えたのです。
4章 江戸時代-発展-
生け花の変化
江戸時代は生け花が大きく発展した時代です。江戸時代には、武士階級の屋敷の大広間に飾る大型の生け花が必要となり、「立花」が確立されます。
その後、元禄の頃になると、簡素な「数奇屋造り」という住居が増えていきました。今度は、この奇数屋敷造りの小さな床の間に飾る生け花の需要が高まります。より自由で形式にはまらない「投げ入れ花」などが人気となっていきました。
このように、生け花は人々の居住空間に大きく影響を受けながら発展していったのです。
「生花」の誕生
この頃から「立花」は煩雑華美なものとして考えられるようになり、人気が低迷します。替わって流行した「投げ入れ花」を元に、自由な表現をよしとする「生花」が誕生します。
「生花」は、草花の調和を重んじる「立花」に対し、草花そのものの個性に美を見出した型です。
この「生花」を重んじた流派として古流が知られています。関本理恩が儒教の教えを元に「天・地・人、三才の理念」を作り上げ、「生花」を体系化。古流の名を不動のものとしたのです。
生花は生け花の三角形の構成を「天地人」や「真行草」と呼び、小難しさを排した生け方は人々に広く普及していきました。
5章 明治時代-衰退の危機-
苦境の時代
19世紀末、明治初期の文明開化の時代には、生け花を支えてきた武家や商家が没落していきます。さらに、欧米文化を取り入れる風潮が高まっていったことが影響し、それまでの伝統的な文化や芸事を軽視する傾向が強まっていきました。
その影響で、生け花は時代に合わないものとして排斥され、一時衰退していきます。江戸時代に一流として東京で名を成した流派や家元は他の職業へと転身するか、金沢などの古く伝統文化に理解ある地へと移住していきました。明治初期は、生け花の世界にとっては厳しい時代だったのです。
生け花の再評価へ
しかし、明治中期になると、ナショナリズムの台頭により、日本の伝統文化を再評価する動きが出てきます。
政府は生け花を女性のたしなみとして教育科目に入れます。良妻賢母の条件として、女性たちにとって生け花は重要な習い事の1つになったのです。
京都の女学校には華道教授が就任し、女性が華道を楽しめるように力を注がれるようになりました。これが生け花の復興の足がかりとなっていきました。
また、その結果としてそれまで男性中心だった生け花が、女性にも開かれるようになっていったのです。もともとは古僧侶や武士が広めた生け花が、女性の習い事に変わっていったのは不思議ですね。
「盛花」の流行
明治時代は西洋文化の流入と共に、それまでどこの流派も取り入れることを拒んだ洋花をいけばなに取り入れた「盛花(もりばな)」が人気となっていきます。
「盛花」は小原流の祖である小原雲心(うんしん)によって作られました。「盛花」は一般的に「自由花」とも呼ばれています。
この「盛花」の特徴は洋花を使っていることと、また飾る場所を限定されにくいことにあります。
というのも、今までの生け花は床の間に飾られることを想定していました。しかし、明治は西洋化により人々のライフスタイルや居住空間も大きく変化した時代です。床の間に限らず、様々なシチュエーションや空間を彩る型として、「盛花」は時代の変化をとらえた生け花なのです。
6章 大正以降-自由花の成立-
大正時代になると決まりごとにこだわらず、自由な感性で形をつくることのできる「盛花」はさらに注目を集めていきます。
また、流通や栽培技術の発達などにより、出回る洋花も多種多様になります。そして、西洋のフラワーデコレーションの影響を受けたものなど、異なる文化的背景をもつ洋花を使った形式は生け花に新たな息吹を与えました。
現代では形式にとらわれず、かなり自由な型の生け花もあります。花器に麦わら帽子を使ったり、唐辛子を使った作品も見られるとか。
生け花というと、格式が高く、堅苦しい習い事というイメージを持っている人もいるでしょう。でも、独創性を生かした生け花が広まるにつれ、草花に親しむ人ももっと増えるかもしれません。
7章 最後に
人々の暮らしに彩を添えてきた生け花。しかし、新しいものへの憧れから伝統文化を軽視した時代もあり、決して順風満帆とはいえない歴史が生け花にはありました。
その苦境の中にあっても途絶えることがなかったのは、各流派が自らの理念や技法は曲げずに、一方でうまく時代の変化も取り入れたことに理由が見いだせます。
生け花の長く波乱万丈な歴史は、創作や鑑賞の良い刺激になりそうですね。
提供・はな物語
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