生け花 の流派 特徴と歴史で見るその違いと は

日本の伝統芸能の1つといえば、生け花ですよね。日本には多くの流派があり、3大流派である「池坊」「草月流」「小原流」という名前だけでも聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

また、生け花といえば、格式高い習いごとをイメージしがちです。でも、今では生け花は以前よりも気軽に楽しめる習い事になってきています。体験教室なども多く、チャレンジしやすい環境になってきていますよね。

一方、華道教室などを探しているときに、流派の違いがよくわからない、という声が多く聞かれます。生け花をよく知らない人にとって、写真や実際の作品だけ見ても、似たり寄ったりに見えてしまう人もいるのでは。

でも、実際には流派にはそれぞれしっかりとした流儀があり、それぞれに特徴があります。この記事では、日本を代表する7つの流派の歴史と特徴を紹介します。

一見すると似たり寄ったりのように見えていた人も、各流派の流儀を知れば、生け花の見方が変わるはずです。

1章 流派とは?

家元を中心とした組織

生け花の形式や方法は画一的ではありません。その生け方は流派によって異なります。

流派が誕生したのは、生け花の成立と同時です。時は室町時代、京都の六角堂の僧が生け花を確立したことに始まります。

流派は家元と宗家を中心に構成されています。家元は、その流派の伝統、流儀を伝承する最高権威を持っている人のこと。一般的に、家元は血縁による世襲制で受け継がれていきます。

宗家は、ある一門の中心となる家のこと。当主または本家とも呼ばれます。

ちなみに、家元が存在するのは生け花の分野だけではありません。茶道、書道、能、日本舞踊などにも家元制度はあります。以前は囲碁や将棋にも家元は存在しましたが、今はなくなっています。

また、分野によっては「家元」という名称を使わないところもあります。

流派の数

生け花の流派はとても細かく分かれていて、その数300以上とも言われます。世間で名の通った流派はほんの一握りということですね。

数ある流派の中で、三大流派と呼ばれるものがあります。それは、「池坊(いけのぼう)」「草月流(そうげつりゅう)」「小原流(おはらりゅう)」。この三つの流派は日本の代表的な流派で「三大流派」と呼ばれています。

この中で池坊が生け花を確立したといわれており、最も古い流派となります。

それぞれの流派によって、脈々と受け継がれてきた理念や技法は全くことなります。

三大流派を始めとする代表的な流派にはどのような特徴と歴史があるのでしょうか。

2章 池坊

2-1、特徴

池坊は、草花が持つ生命と自然の中に美と和を見出します。それは、一番美しい状態の花を使用する、ということではありません。

枯れかけ、色褪せ、虫食いなど、草花の生命に寄り添い、あるがままの姿を生かすことを理念としています。

主とする技法は「立花」「生花」「自由花」の3つ。「立花」は室町時代に成立した技法で、池坊の理念を最も体現する型と言えるでしょう。

また、「生花」は江戸時代に成立し、草花が生まれる瞬間の美を表現しています。

一方、「自由花」は明治時代以降、西洋化に伴う人々のライフスタイルの中で人気となっていった生け方です。ルールなどはなく、生ける人の自由に表現することができます。

2-2、歴史

祖は天台宗の頂法寺の僧、池坊専慶。日本最古の流派であり、最大の会員数を誇るため、「池坊の歴史は生け花の歴史」とも言われます。ちなみに名称に“流”はつきません。

池坊とは、聖徳太子が創建した六角堂頂法寺の坊の名をさします。今日でも、池坊の家元は代々、頂法寺に僧籍を置いています。

流派が誕生した正確な年はわかっていません。専慶の最初の記録は、東福寺の僧雲泉大極が著した『碧山日録』に残されています。それによると1464年(寛正3年)、専慶が草花を生け、京都の好事家の評判を得たとあります。

天文年間(1532~1555年)になると、11代目専応は「立花」の体系化をはかりました。花伝書『池坊専応口伝』は池坊華道の基本となるものとして、現在でも門弟に授けられています。

3章 草月流

3-1、特徴

草月流のいけばなの特色は、形式にとらわれず、自由であること。

草月流では「生ける」などの漢字は使いません。「いける」を「造形る」「変化る」などと表現しています。

そして生けた人の個性を活かすことを基本としています。斬新な発想も取り入れ、枯れ枝や石や金属なども花材として使うんですよ。

まるでオブジェのような造形美を表現するなど、常識を破る芸術的な生け花が草月流の真骨頂といえます。

3-2、歴史

1927年、勅使河原蒼風(てしがわらそうふう)によって創流されました。それまで蒼風は華道家の父の指導のもと才能を開花させていました。

しかし、徐々に形式的な生け方に疑問を持つようになり、父親と決別して草月流を創ります。

モダンな生け花は新しい時代の家に対応するとして、人々の興味を引くようになります。戦後、さらに自由を求める世の中の空気におされ、草月流は爆発的に広がっていきました。

4章 小原流

4-1、特徴

小原流の最も大きい功績といえば、より多くの人に親しんでもらえる生け花のスタイルを考案したことです。それこそ、初代家元が考案した「盛花」でした。

「盛花」とは、口の広い器(水盤)と剣山を使い「盛る」ように花を生ける、今ではおなじみの生け方です。この技法に加え、各流派が拒んできた洋花を生け花に使用。

時代と人々の居住空間の変化を考慮し、生け花にもその変化を反映させることで発展した流派と言えます。

4-2、歴史

小原流は明治の中頃、初代家元 小原雲心(おはらうんしん)によって始まります。雲心は「盛花」を考案し近代生け花の礎を築きました。
当時の世の中は西欧の文化がもてはやされ、洋風の屋敷が多く建てられたり、西洋種の珍しい花もたくさん輸入されていました。

雲心は他の流派が拒んできた洋花をいち早く生け花に取り入れようとします。しかしその際、それまでの立花形式と洋花が合わないことに気が付きました。

そこで、洋花にも合うよう考案されたのが「盛花」。水盤のような浅い器に低く盛るように生ける方法は画期的なことでした。

また、2代目光雲は男性が占めていた花教授の職を女性にも開放し、生け花文化の近代化に尽力しました。

3代目豊雲も意欲的な活動を続け池坊、草月流とともに3大流派と言われるまでになったのです。創流から1世紀、その時代の生活様式の変化にともない生活空間にふさわしい生け花が生み出されています。

5章 龍生派

5-1、特徴

龍生(りゅうせい)派は「植物の貌(かお)」と呼ばれる考えを基本としています。

戦後、生け花の世界では堅苦しい形式より、自由で前衛的なスタイルがもてはやされるようになります。その中、華泉は植物本来の姿、一枝一葉の表情を捉えて作品とする方法論「植物の貌(かお)」を提唱。「植物の貌」は今日でも龍生派の根幹となっています。

龍生派では、大きく分けて「古典華」と「自由花」の2つのスタイルを採用しています。

古典華

生け花を伝統に基づく型の中で表現するスタイル。このスタイルは、さらに「立華」と「生花」の2つに分類されます。

「立華」は花瓶からまっすぐ立つよう花を生けるのが特徴。対して「生花」は、生ける人の主観と独創性を重んじた生け方です。

自由花

生ける人の気の赴くままに生ける手法。形式がありませんので、作品によって印象がかなり違います。

また、自由花は一般的なテーブルサイズのものだけではなく、インスタレーション的な表現として建築物とのコラボレーションなども行っています。

5-2、歴史

1886年(明治19年)、初代家元吉村華芸(かうん)によって創流されました。2代目家元の華丘(かきゅう)は、立華、生花に加え挿花(そうか)、瓶花(へいか)様式を創案し、流派の基礎を固めます。

3代目家元の華泉(かせん)により、龍生流の基礎となる考え「植物の貌(かお)」が提唱されました。

戦後、生け花の世界では堅苦しい形式より、自由で前衛的なスタイルがもてはやされるようになります。その中、華泉は植物本来の姿、一枝一葉の表情を捉えて作品とする方法論「植物の貌(かお)」を提唱。「植物の貌」は今日でも龍生派の根幹となっています。

2015年から吉村華洲(かしゅう)が4代目家元として、龍生派生け花の指導と普及にあたっています。

6章 嵯峨御流

6-1、特徴

嵯峨御(さがご)の生け花は、植物のあるがままの姿を生かしつつ、生ける人の心を、植物を持って表現するスタイルが特徴と言えます。その様式は、大きく2つに分類することができます。

伝承花

「伝承花」は生花、盛花、瓶花、荘厳華の4つの形式を持っています。

  • 生花

草花で天、地、人を表現。

  • 盛花

自然の景観を切り取ったような生け方と、草花の彩を生かした生け方がある。

  • 瓶花

花瓶を用いて生けるスタイル。

  • 荘厳華

神事、婚礼などの儀式で、大広間に飾られることを想定したスタイル。「荘厳」という名の通り、重厚感のある生け方が特徴。

心粧華

「伝承花」を発展させた形式で、3つのスタイルに分かれます。

  • 祈り花

植物の生命力に敬意示す心を生けた表現。

  • 才の花

「気」「流れ」「風」といった、目には見えないものを花で表現するスタイル。

  • 想い花

盛花と瓶花を発展させたスタイル。心のままに自由に生けるのが特徴。

この流派は他の流派にみられる家元制度がありません。流派の運営は「華道総司所」という機関が行っていて、華道総裁は代々、大覚寺の門跡が受け継いでいます。

未生流の2代目広甫が大覚寺の花務職につき未生御流の名を賜ったことから、未生流と縁の深い流派です。 嵯峨御所大覚寺に「華道総司所」があり、国内はもとより海外も含め130余りの支部を統括運営しています。

天円地方の原理・金胎不二の妙理など一木一草にも大宇宙の生命が息づく思想と草木をもって人も社会も浄化されると云う思想が、嵯峨御流いけばなの基本として伝承されています。

6-2、歴史

嵯峨御流は嵯峨天皇(786~842年)を開祖とします。一時衰退をみますが、400年ほど経た鎌倉時代後期に宇多法皇が華道や工芸などの伝統文化の再興を図りました。

江戸時代、華道家の未生斎広甫(みしょうさい こうほ)が大覚寺の花務職に任じられます。広甫は嵯峨御流の再興に尽力し、嵯峨御流は全国へと広がっていくことになっていきました。

7章 未生流

7-1、特徴

未生(みしょう)の花の特徴は理論的に計算され、隙のない緊張感のある美しさにあるといえます。華道技法には直角二等辺三角形の形を象って生ける技法があります。

その中に万物の象徴である天地人を象り小宇宙を表すなど、宗教的観念や精神性の高さを思想の根本としています。形式にこだわった潔癖な美を追求してきた流派といえますね。

7-2、歴史

江戸後期の1807年(文化4年)に、大阪で華道家の未生斎一甫と未生斎広甫が始めた流派です。一甫が初代となり、のちに広甫が2代目となりました。

広甫の美しい作風の評判は京都にも伝わりました。彼は当時「嵯峨御所」と呼ばれていた大覚寺の花務職として迎えられます。

ここで未生御流の名を賜り、そこから分派したうちの一つが現在の「嵯峨御流」です。未生流はさまざまな分派があり、現在では未生流を名乗る派は数百にものぼります。

8章 古流

8-1、特徴

儒教の教えを花で体現することを基盤としています。花の美しさ、見た目の良さにとらわれるのではなく、儒教に基づいた、より高い精神世界を表現しています。

また、江戸前華道流派とも称され、江戸時代の生け花の様式を現代に伝えている流派でもあります。

8-2、歴史

江戸中期の生花の草創期に活躍した今井一志軒宗普が創始者とされています。その後、古流の名は3代目関本理遊と4代目理恩によって本格的に広められていきます。

理恩は儒教の教えを元に「天・地・人、三才の理念」を作り上げ生花の体系作りをして、古流の名を不動のものとしました。

しかし、明治時代になると古流は衰退。理恩は、前田家の家臣であった五世・近藤理清に金沢の地での古流復興を託します。

というのも、金沢はお茶や芸能などが盛んな街。明治時代になって西洋文化を猛烈な勢いで吸収していった東京に対し、金沢では西洋文化の影響をあまり受けていませんでした。そのため、日本の伝統芸能が変わらず盛んだったのです。

理清は理恩の流儀と理念を継承し、金沢で再び古流を復活させたのです。

9章 最後に

一口に生け花といって、流派によってその技巧は大きく異なります。

しかし共通しているのは、どの流派も草花のもつ美を最大限に生かす理念ではないでしょうか。美に対する考えそのものは時代によって変化をしますが、草花のもつ自然な美しさと、生命力は時代を問わず人々を楽しませてきました。

日常で花を楽しみたいけど、生け花は敷居が高そう、と思っている人もいるはず。ですが、紹介したように今は自由に花を楽しむ流派も多くあります。もっと気軽に、伝統文化と美しい花の世界を体験してみてくださいね。

提供・はな物語

こちらの記事は、プリザーブドフラワー専門店・はな物語の提供でお送りしました。

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